究極の自己責任は殺し合いにこそ存在するし、そもそも存在しない

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まぁ、相変わらずホリエモンがアホなことのたまっているわけだが。堀江に限らず、自己責任論者、あるいはリバタリアン的な連中というのは決定的なことを忘れていることを私は指摘せざるを得ない。
連中は何を忘れているかと言えば、殺したり殺されたりする関係、闘争や交戦といった関係こそまさに自己責任であるということ、この重大な基礎を忘れ去っているのである。


リバタリアンの連中、あるいは堀江的な自己責任論者、レッセフェールを主張するような連中は、まずロック的自然状態を前提としていることがポイントになる。つまり、自分が畑を耕すなり投資するなりで得た利益については、自分のものである、これは自明である、という考えをとっている。だがしかし、それが何で自明なのかはよくわからない。自明だから自明である、自然だから自然である以上の説明はない。
端的に言えば、こっちはそんな自明に付き合ってやる必要は無い。人は自己責任で奪い奪われ、自己責任で犯し犯され、自己責任で火を放ち放たれ、自己責任で捕縛し捕縛され、自己責任で拘束し拘束され、自己責任で殺し殺される自由がある。むしろ、このようなあり方、闘争における殺害と被殺害の関係こそ、まさに自己責任であり、人間の自由の表徴である。単なる所有権や契約なる仮構された抽象概念などは自己責任でも自由でもない。
しかしながら、反面、人は決定的に自由になれない。なぜならば、脳は電気化学的信号であり、それは遺伝的に構築され、外部からの刺激により形作られるものであるからだ。そのような意味において自己責任とは、法的なシステムを運用するために、民事上の責任を問い、刑事上の罰を与えるために仮構されたフィクションに過ぎない。この社会を運営するために作られた虚構である法システムを運用するために作られた便宜上の概念に過ぎない。だから、そんなもんは端から存在しない。
ゆえに、二重の意味で自己責任という仮定は意味が無い。第一にそれは究極的には殺し合いに至るべきものであるし、第二にそもそも信号処理装置に過ぎない脳にコントロールされる人間に自由意志など本質的には存在しないからだ。
だから、この堀江の言説に当てはめれば、その60過ぎて仕事の無い日雇い崩れみたいな連中は、まずもって他人から奪うことを許されている。ピケティの議論に引き寄せるならば、うまくrに投資して儲けた連中から殺してでも奪い取って良いのだ。そして、それをお行儀のいいリベラルは口に出せないのだが、その殻をまず打ち破らなければならないと言える。
持たざる者はその肉体を以て、自らを持たざる者たらしめた社会に報復しなければならない。制度化された収奪である福祉と税を否定するのならば、制度の外から奪い取ることは極めて論理的であり、倫理的ですらあるのだ。